2013年12月14日

安堂アサヒ

「負けることが恥ではない、戦わぬことが恥なのだ」(出典:覚悟のススメ)

【『安堂ロイド』の最終地点――日本のSFアクションの限界と木村拓哉の評価】

さすがサイゾー、最後までアンチを貫いてきたか…と思いきや、何やら若干の軟化が見受けられ…ガッカリした(笑)最後までキッチリ戦えよこのヤロー(^ω^)ハッハッハ

まあそれはいいとして。

感じ方・受け取り方は人それぞれなので、全てに反証を重ねるのもナンセンス。だが、麻陽の感情の動向への疑問のくだりについては甚だ、それこそまさに「疑問」を感じたので…「それは違うよ」ではなく「自分はこう思った」を示しておきたい。

確かに、所謂ストーリーテリング的に性急・突飛と感じた、「え、もう?!」と思った。だが、次の瞬間には、こう思っていた。「突飛な状況に置かれた人間は突飛な行動に出るものだ」と。

目の前で人が車に跳ねられ吹っ飛んだのを何度か見たことがある。幸いにも軽傷で済んだ例ばかりだが、これが、吹っ飛ばされた側は一様に、「すいません!大丈夫!」などと言いながらヨロヨロとその場を立ち去ろうとしていた。傍目にも明らかに完全被害者であるのに「すいません」で「大丈夫」なのだ…いや決して大丈夫ではないだろ(´ω`;)と。

かく言う俺も吹っ飛んだことがある、まあ、あれは『自爆』だったが。「大丈夫?!」と声をかけてくれる人に、「大丈夫です、すいません!」と謝っていた。加害者でもない、たまたま居合わせただけの人にだ、顔面血みどろで、何故か謝罪。むしろ、相手の蒼白な表情に「どうしたんだろ?」なんて思っていたのを、しっかり憶えている…どうかしてるのは俺だったのだが(笑

閑話休題。

日常が非日常へと飛躍した時、はたしてそう冷静沈着でいられるだろうか?傍観者(視聴者)の視点では「突拍子もない」行動も、"彼女の視点"に立ってみたら…なんの違和感もなかったな逆に、俺はね。

それに…そうだった。彼女は、ネトゲで負けたのが悔しいからって対戦者のところへと乗り込んでいくという、エキセントリックな女だった(笑)そして、自分を『理解されない孤独』と称して憚らない沫嶋黎士という奇人を理解出来る変人、奇特なイイ女なのだ。

とまあ、これが「俺の感想」。


『Undo(アンドゥ)』という言葉があります、「やり直し」ってことです。アンドウ・アサヒ、いい名前じゃないですか、「日はまた昇る」。


さて。

論理性、整合性、科学的根拠に基づくことこそがSFの定義であり価値…という向きには理解し難いかもだが。

俺はね、「描かれてるのが全て理屈で可能なことなら、それはサイエンス・ノンフィクションじゃないか?」と思うんだ。

リアル(っぽい)ディテールにワクワクしつつも「説明がつかない、あり得ない」をドキドキで楽しむ、そして究極的には、その先にある『奇跡』を見るのがサイエンス・フィクションの醍醐味だ!…と、思ってるわけですよ、俺はね。不思議、不可解、センス・オブ・ワンダーってやつ。

なんでもかんでも「あなたのご想像におまかせします」ってな投げっぱなし(雰囲気だけ)な作品は別として。ディテールとロマンの比率…というか、受け手側のそれに対する、感性に基づく『比重』によって、大きく感じ方/評価が変わるのが、サイエンス・フィクションじゃないかな。

個人的には、SFとはサイエンス・ファンタジーでもあると思ってる。それでね、奇跡ってのは、人の組み上げたロジックだけでは説明つかないからこそ奇跡って言うんだぜ。


「他者に「限界」を諭す者とは、それを己に定義している者に他ならない」(出典:俺←)


「俺(も)観てない」でも「俺(も)つまらん」でもなく、「俺(は)好きだぜ」で戦ってきた皆さん、いよいよ明日『決戦』ですね。





ed209 at 09:27│clip!@安堂ロイド