2013年12月16日

私的『安堂ロイド』総括のようなもの(その四)

国立博物館が一般に解放されて間もない頃のことですが、教師に引率された中学生たちが熱心に見学しておりました。

生徒たちは、ちょうど新聞記者のように忙しそうに、陳列品に付されている解説や、先生の説明をノートしておりました。

しかし、生徒たちは、誰一人として肝心な陳列品そのものを見つめてはいませんでした。


(中略)

少年たちは、このような方法といいますか、態度が、大人の本格的な立派な観察、鑑賞の方法、態度と思い込んだことでしょう。

もちろん、このような場合、解説が極めて重要なものであることはいうまでもないことですが、やはり、対象から直接に受ける印象や、感動が、恐らく最も重要なものであることは疑いを入れません。そのためにこそ、わざわざそこに足を運ぶのです。

この出来事は、極めて些細なことのようですが、少なくとも次の二つの事柄を含んでいると思います。

一つは、何かある作品に接した場合、作品そのものからくる直接的な感動とか、または、印象などよりも、その作品に関する第二義的な、いわば知識といわれるものの方をより重要だと考えることです。更にいえば、枝葉的な知識とか解説なしには、本当の鑑賞はあり得ないと考えることです。

他の一つは、たとえ、自分がある作品から直接に強烈な印象なり感動を受けたとしましても、これを決して最終的な価値判断の尺度とすることはなく、より権威があると考えられる他人の意見、いわば定評に頼ろうとする態度です。


(中略)

私たちは第一にこのような態度から逃れねばなりません。



以上、伊福部昭著『音楽入門』冒頭より抜粋して引用させていただきました。

や、ホント、よくその態度や姿勢で「マスゴミwww」とか「情弱www」とか言えるよなあって思うこと増えたなと(・ω・)近ごろのインターネッツ。

Twitter見てて面白いのは、他者の揚げ足とりや嘲笑にせっせと精を出してるユーザーって大概、RTやフォロワーなどの「数字」を欲しがってる/無闇やたらに多い(もしくはゼロ)ユーザーということ。あと、『自分では何も産み出さず』って共通点も感じる。

ま、面白いつっちゃいけないけどね(´ω`;)ゆゆしき風潮だわな。

俺なら「虚しくなる(自分が)」けどなあ、そういうの。

そういうのでも、中には見るべきところもありそうなもんだけど…総じて薄っぺらいんだよね、「作画が」とか「脚本が」とか言っときゃツウっぽいと思ってる的なニオイしかしてこないの(´・ω・`)確たる論証(反証)もないし、なにより『信条』が、そこには感じられない。

いわば、「CGばかりで(ry」って言っときゃいいと思ってる芸術気取りの映画評論家レベル。

…そういや俺の住まう領域でも「ピッキングが」とか「音作りが」とか難癖つけて回ってるタイプに、実演(実力)があった試し、まずないな(・ω・)そうか、そういうことか。




この総括のようなものはランダムに、今一度つづく