2014年02月08日

外様だから言えること(かもね)

【佐村河内守】作曲家ゴースト告白の“タイミング”に賛否 坂上忍が新垣氏に苦言「今じゃないでしょ!」

まあ、いかにもギョーカイ的な見解だな、契約・盟約、密約的な。それは社会的な、『大人の態度』なのかもしれないが…妙に告発側(ゴースト)を責める論調を展開する人は「何か後ろめたい事でもあるのか?」と穿って見てしまう(笑

本来「タイミング」なんてのは作者のもの、当事者のもの、本人次第。外野が口を挟み・決めることではない。

今回の一件、芸術・創作と商業・産業は、本来水と油だということが、露わになった。

勿論、その全てがそうだとは言わないが、およそ産業○○というのは『妥協の産物』。偽らざる自己表現の純化への邁進と、物質対価を重視する宿業は、本質的には相容れぬもの。ゆえに、多くは、少なからず『折り合いをつけて』いるのだ(なお、それすらままならない・叶わない場合、それは『劣悪な環境』であり、一種の支配、蹂躙と言ってもよいと個人的には思う)。

過剰な装飾、あるいは虚飾。それをよしとする、芸術の商業・産業化。その歪みをむしろ当然のものとしてしまった原因。その根底には、売り手(ここは敢えて「創り手」と言わない)の不純な動機や欲望の存在も勿論だが、享受する側の意識、芸術に対する理解の程度の問題も、在ると思う。

或る作品・対象に向き合うとき、そこに付加価値、たとえば作者の有名無名、権威からの評価の有様、作品の成立における劇的要素の有無といった、作品それ自体、ひいては自分が直接作品から受ける印象とは無関係と言っていい名目や冠名、或いは意義。そういった言わば『道筋』を用意して頂かないと「感じ入る」ことが出来ないという、鑑賞する側の態度、つまり権威主義、ひいては感受性の欠乏の問題。

ここで「ではフィクションは存在してはいけないのか(無価値なのか)」とか「夢を見てはいけないのか」といった声も聞こえてきそうなので、念のため言っておく。これは、そういう話ではない。ここで述べているのはあくまで『作品の本質とは無関係な脚色の介入や思惑の過干渉』だ。

事実、かの人物・作品に対して、そういったバイアス無しで純粋に触れ/評価してはいなかった人々は多いはずだ。それはもはや『直感』では無い。

常日頃「クラシックなんて」「歌詞ないの?(無いと聴けない)」なんて人も、そこにたとえば『感動的エピソード』が付属していると途端に「素晴らしい!泣ける!」と誉め称えはじめたりする。

ちょっと逸れるが…初音ミクという優れたデザインの『キャラクター』の存在がなかったら、はたしてボーカロイドというジャンル(まあ本来は"ツール"なのだが)は、ここまで支持されていただろうか?

閑話休題。

だが結局のところ、殆どは「そこまで」だ、多くがその先へとは至っていない。あくまでそれ『だけ』が評価や感動の対象であり、音楽愛聴の裾野は決して広がってはいない、むしろ目に見えて縮小してきている。それは『場当たり』で売り切ってきたツケだ。長期的・普遍的であるべきものを扱う立場にありながら、本質の理解を怠り、本編とは別の物語で煽り、次々と一時的な、ある種の特需を作ってきたに過ぎない。

商売である以上、多少の飾り付け・盛り込みも必要、それは理解する。しかし、近年の様相は、あまりにも本末転倒だと感じる。苦しいならばこそギョーカイは、内に外に、本質を育てる立場へと返らなければ。自らを苦境に追い込んだのは自らの安易でもあるのだから。

そして。事ここに及び襟を正すべきは、ギョーカイ側ばかりではないと考える。近頃よく「質が下がった(だから聴く気がしない)」といった声を聞くが、そうなってしまった、『それを許してしまった』のは誰か?それを省みるには丁度よい機会ではないだろうか。でなければ、この先も、エナジードレインの応酬(レベルの下げあい)は、連綿と続くだろう。


以上、創り手の端くれでありリスナーでもある俺の極めて真面目な独り言(・ω・)具申であり自戒でもある。←一応つねにそのつもり


《サムラゴースト3部作(まとめ)》
第一部【影武者】
第二部【鬼武者対影武者】
第三部【外様】

特別編【THE SAMURAGHOST】

異聞録【怪気炎】

番外編【其の一】
番外編【其の二】