2014年04月12日

昨夜ふとんに入ってしばらく考えていたこと(・ω・)

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『芸術』とは何か。それはつまり文字通り芸であり術だ。たとえば戦国の世において、剣術は武芸であった。自らを活かし、そして生かしうる能であり、彼らはすなわち求道者であり芸能者であった。

「能なし」とか「芸は身を助く」なんて言葉もあるくらいのものである。芸術とは本来、もっと粗野で、本能的で、爆発的なものなのだ。決して高尚を気取るための雰囲気お洒落道具ではない(その様に認識が歪めすり替えられているのが実情であり日本語化された『アート』である)。

と、そんなことはとうに分かっているんだ、俺の中ではとっくに決まっていること。

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では、『芸術的』とは、なんだろうか?

我々は折に触れ「芸術的」と言ってしまうことがある。ときに絵画や音楽に対し「芸術的だ」という感想を漏らしてしまうことがある。しかし、考えてみれば、それは実に無意味なのだ、それらは既に『芸術』なのだから。それは、たとえばチョコレートを食べて「チョコみたい」と言うにも等しい、まったくもって意味のない感想なのだ。

人が創ったものを評して「この、芸術的なフォルムが…」って、何を当たり前のことをしたり顔して言っているのだ、それは「的」ではなく芸術だ。

結局そこにも、"日本語化された『アート』"の認識が影響してしまっているのだろう。「貴族の嗜み」のような高級感をそこに含ませ匂わせることで、ある種の優越感を得ようとする。意味ありげなその実無意味を付与し、高尚を気取る。唾棄すべき、まことの『俗』である。

本来『能』に貴賤など無い。建築だって芸術だ、街角の看板だって芸術だ、キャベツだってその結実だ。そこに貴賤を設けるのは『格』にすがろうとする、さもしい依存心。我々は等しく誰かの芸能・芸術の中で、そのおかげで生き暮らしているのだ。そして真価はつまるところ(自分がそれを)好きか、否か、それだけだ。

だから俺は解体される建物やある日無くなる看板や採れ過ぎてグシャグシャと廃棄されるキャベツを見ると(´・ω・`)とても悲しくなる。

さて。人の手、明確な意図・意志によって表されるものが『芸術』。であるならば『芸術的』とは、人為作為が介在していないにも関わらず、まるで準備、設計、構成、計算されているかのような完成美を感じさせる、つまりまるで芸術「のごとき」事物事象に対してのみ用いられるべき(そして「高尚っぽい」といった様な認識でもって口にすべきではない)形容ではなかろうか。

それはたとえば、自然や、宇宙や、生き物だ(ヒト含)、言わば「神のいたずら」。

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ああ、なぜこんな簡単なことに今まで気付かなかったのだろう、なんだかちょっぴりくやしいからもう寝よう。



以上が、昨夜のわたしのふとんの中である。

ただ、このふとんには大きな問題点がある。『偶然』を『芸術』と言い張る、偶発を実力と称する輩の跳梁を許してしまう危険性があるということだ、『前衛的』(ここでまた「的」である)という言葉で出鱈目出任せを正当化させ、高尚を気取らせてしまうかもしれないという穴だ。賢い人、補完をたのむ。



ちょうどこんなのを目にしたので、書き起こすことにしたのです(・ω・)これらも『撮る』という人の意志が関わっている以上、完全な奇跡ではないかもしれないけど、限りなくそれに近いものだと思う。

【芸術的な動物画像ください!!!!(特にゴリラ)】