2014年04月26日

TRUE SEED

【江崎玲於奈教育改革国民会議座長の本音 「教育改革に優生学導入」の危険】

素養・適性(言わば天性)ってのは事実在ると思う、それを見抜き育成することは、実際に、飛躍的発展に繋がる可能性もあるだろう。しかしこれは危ない論理、いや『思想』だ。

そもそも教育指導に関しては、現時点においても『平等』では無いよな実際、均一的画一的なだけで。

そこんところを改革改善しようって意味合いを含んでのことなんだろうとは察するし、完全無欠を創出しよう(出来る)と考えているわけでもなかろうとも思う(そんな馬鹿なことを考えるとは思えない)。要は『適材適所の促進と確立』そういうことなんだろう(そう願いたい)。

しかし、だ。

ヒトは感情の生物である以上、どう棲み分けしたところで不平不満は生じるだろう。増してやそれが『成り行き』では無く始めから『義務』として強制的に課された場合は。

人間てのは、成り行きに対しては「自業自得」と納得もできる(それは時には諦念や後悔でもある)が、強制されたことに対しては凡そ疑問を覚え不満を抱えるもの。そうした中で、自己矛盾を孕みつつ勤しみ営んでいく。それが事実上の、人間社会の構図であり構成だ。大方は多かれ少なかれ『感情を殺して』生きてるわけだ。

そして不満は進歩の原動力でもあるということを忘れてはならない。すなわち『感情』である。

たとえば昆虫に、そういった感情があるか?本当のところは神でもなければ分からないが(居るかは知らん)、恐らく「無い」。在るのは、それこそ『種という設計図』に組み込まれた本能による、システマティックな、オートメーションに近い生物行動(繁殖と保存)だけだろう。

俺は、「感情こそがヒトの設計図に組み込まれた大いなる生物的特徴である」と考える。それを否定して、はたしてこの種は生きていけるのだろうか。

『感情に左右される』ということ。それそのものが、自分自身の過程道程そして存在において「特に疑問を覚えたことがない」人物には、理解し難いことなのかもしれない。

その"論理的思考"は、ある意味システマティックなものと映らなくもない。しかしこれは決して、かの人物を「昆虫のようだ」と言っているわけでは無い。なぜなら既に、かの人物もまた『疑問』を抱いているからだ。

「誤っているのは自分以外」という思いに至るには、大きく二通りの道がある。ひとつは極端な自己矛盾、そこから生じる疎外感孤立感。そしてもうひとつは、迷いのない極端な純粋さ。

ヒトが自分自身に疑問疑念を抱かない場合、或いは、それを自身認めたくない時、問題点を自分以外に求めるのは必定(極端な例だが分かりやすいところで言えば「世の中が悪い」というやつだ)。

つまり、かの人物もまた、不完全で正常な『人間』であるということだ。

こういった思想それ自体もまた、ヒトの多様性のひとつだと思う。危険なのは、あるひとつの多様性が、権威や数の暴力に成る時だ。そのとき、他の可能性の芽は摘まれる、根絶やしにさえされるかもしれない。過去、圧政だとか戦争というやつも、多くはそこから始まっている。

ついでに言うなら『感情』それを不確かで非生産的なものと位置づけること、思考の停止、感情の死。これは、「操る」には都合がいい。だが結局そこにも支配者の思惑という『感情』が存在している。つまり、それ無くしては善も悪もヒトでは居られないのだ(そして時に、或る感情は「人でなし」とも呼ばれる)。いや、ヒトだからこそ善悪が在るのか。

…と、いらんこと長々くっちゃべったけど(・ω・)長所を見出し伸ばす以前に短所を穿って切り捨てるってのは、少なくとも良き教育者指導者とは思えないよね感情的にってハナシ。それと、なにしろ、「そうすれば世の中に無駄(不満)など無くなるだろう」なんて馬鹿げた想像は、まさかしていないよな?っていう。

最後に。

無能ってのは努力をしていない状態のこと、才能を開花させていない状態のことだと俺は思う。たとえどんな種子であろうと、始めから咲いている花など無い。根腐れすることだってあるだろうな。