2014年11月23日

音は想い。想いはもうコトバ。

先ずは必ずこちらをご覧ください(連文です)。


既にお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが。

特別な場合を除き、印象は限定的にする(押し付ける)ものでは無く、聴いて下さる方それぞれの感性と解釈に委ねるもの、「自由なもの」であるべき…というのが俺の、音楽に対する基本的な考え方です。

ゆえに。『RISING SUN』とは勿論『日の出』のことですが、単にそれを歌ってるわけではなくて、いわゆる"抽象的なもの"です(笑)

さて、そういうわけで、決して自ら限定的にするつもりはありません。が、敢えて。敢えて今回、明かしてしまうと…

既にお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが。RISING SUN、つまり日の出、そこから連想して『日出る処』…そういうことなんです。わかりますか?いや、わからなくたっていいんです。

わかった人は副題や歌詞から、より直截に何か伝わる、いや「感じる」かもしれません。でも、わからない人もまた、感性の赴くまま解釈してくれていい。そこが自由であり、それが大事なこと。正解は各々の中に。

Song of my lifeでありSong for straggling peopleということ。



歌詞が無い(わからない)と音楽を聴けないというか「聴く対象から外れる」人って、少なくないですよね。音楽の立場としては残念なこと、ぶっちゃけて言ってしまうとバカバカしい、ある種"本末転倒"なことなんですが、事実として在る。

それは、良くも悪くも『歌詞』が、わかりやすいキッカケ/入り口、さらには『自己投影(陶酔)の補助具』となってるからだと考えます(★)しかし、そこに没入し過ぎるといずれ、『言葉が用意』されていないと聴けなくなるのかもしれない。それも、触りの良い言葉の羅列とかね。

これは余談ですが。自分の言葉で語らず、誰かや何かに同調することで自己を立てる、また共感という麗句でもって同一化をはかる。最近のネットの風潮とも似ていませんか?

閑話休題。

音と言葉の複合、相乗、それこそ一種の"ハーモニー"。それは古くから存在します、素晴らしいものです。しかし、音楽本来の在りかた、その価値がそこにしか見出されなくなるのは、ゆゆしきことと考えます。

『音』、それだけでも陶酔出来るなら、本当の音楽好きだと思います。少なくともそこには想像力というものがある、お仕着せでは無い想い、自分自身のコトバも生まれる。


★だから『ラブソング』は、いつの世も盤石なわけです。世の大多数にとって常に共通性のある、「共感できる」ものごとですから。…でも、「もうちょっと、他にも考えることないのかな(あるだろ)」という思い(意味深)


【蛇足】
RISING SUN、先の記事で言った通り改作を繰り返してますが、それは編曲に限ってのこと。タイトルはもう四半世紀前からずっと、由来はジミ・ヘンドリックスの『HEY BABY (NEW RISING SUN)』、歌詞も当時から殆ど変わってません。311とかあったからとってつけたとかじゃありませんよ?念のため。

なお、ここには机上で/脳内で練ったものばかりではなく、共にライブでプレイすることによって得た閃きも反映されてるということ、これ大事なことだから言っておく(・ω・)ライブ=漫然と"再生"をこなせばいいという場ではない(そんなのもったいない)、そこは"新生"の可能性を秘めているのだ。