2014年11月28日

超 大 作 ←アオり

【序章】

●ジャポニカ学習帳の表紙から昆虫写真消える 少数の教師や親が「気持ち悪い」とクレーム●

だからさあ…少数意見を封殺するのはよくないけどさ、少数のアレな声ばっか反映させてどうすんの(´・ω・`)ゴネ得常勝の世界になるぞ。ていうか、もう大人が自分の尺度や好みであれこれ口挟んでるだけじゃねえかほぼ、そのほうがよっぽど「気持ち悪い」わ。

「さわれない」←買うなやああああああ!!

その、子供の感覚はわかるけどさ、図鑑とかでもそういうのってあったしさ。だが(``)それも成長/克服過程だと思うんだけどね?そうやって「臭いものに蓋」ばっかしてたら耐性/堪え性のない成長を遂げかねんぞ。節子それ優しさちゃう、甘やかしや!(それも、自己満足的な)


【第一章】

いやほんともういいかげん『低いほうに合わせる』姿勢やめようや(´・ω・`)それで映画も音楽もネットもレベル低下したんだぜ?ここ十年ほどの下がり幅は深刻、ユーザーとコンテンツのマイナス成長イタチごっこ。〜いわゆるエナジードレインの応酬である〜

結局、利潤>プライドで追求すると万事そうなって行くのは、まあわかるんだが…これも長引く不況が悪いのか←

ぶっちゃけ、若年女子が明らか低レベル寄りなものをカワイイカワイイ持て囃す風潮始まったあたりから雲行き怪しいなと思ってました(´・ω・`)ええ。#塗りたくり着飾れば自分でも何とか追いつけそうなものを誉めちぎるという志しの低さ (量産型の量産型たる所以である)


【第二章】

音楽方面で言うと、近年オリジナルよりもカヴァーのほうが多くにありがたがられがちなのも、つまりはそういうことだと思う。手が届く(届きやすい)ということ。そうでもなけりゃ、仮にも『歌手』がカラオケ合戦やってるのなんて真顔で拝謁しないって(どこの誰とは言わないが)。

もちろん、そもそも世の多くってのは有名or無名を評価そして選択の大きな尺度や決定要素にするものだけど、少なくとも、「後から出てくるものは過去のものより総じて劣ってる」なんて法則は無いからね。こういう風潮だと、ユーザーの開拓心や冒険心も萎縮するのだ。マニアック層はまだしも、多くは確実・安心・安定を求める。そして業界は、それを察して供給する。商売だからね。

だから今はソックリさん(二番煎じ)みたいなのがシレッと出てきても、疑問無く受け入れがち。その実は大きく違っていないんだけど、それだけに「安心」、しかし、それでいて「新しい玩具は欲しい」から、まるで新製品の如く持て囃すわけだ。結果、クローンがオリジナルにアッサリ成り代わったりする。後出しソックリさんのほうが売れたりすら。


【第三章】

そんな風だからアーティストが(そしてユーザーも)長期的には育たない、というか、もはや育てようともしていないという印象。まさに使い捨て…次々と産まれては消えていく『自称』カリスマ、歌姫、多過ぎ問題(「生まれ」じゃ無いとこがミソ)。

ていうか、『アーティスト』っていうのも、わりと近代という感じが…少なくとも、それを『自称』したりするのは。かつてのそういう人達は、誇りを持って「歌手」とか「ミュージシャン」と名乗っていたような。まあ、これは現場がかつてより多様/混在した形になってるから、便宜的というか包括的な呼称としてはアリだと思う。ただ、自分で「アーティスト」って名乗っちゃう人、またそれでいて「アイドル」とかを見下したような感じの人は、なんだか「んん?」って思っちゃうなあ…という余談。

話を戻そう。

ちなみに、昔はそういうのが出てくるとむしろ失笑を買ってたものだった、「パチモン」的な扱いね。わりと誰でも知ってそうな人を例に挙げると、あの小泉今日子も初期は「松田聖子のパチモン」くらいに、けっこう見られてたからね。真にスターに成ったのは、独自の個性を打ち出してからだ。

まあ、これは業界自らジワジワと招き寄せた結果と言えなくもないんだけどね。それは映画もそう、もう『泣ける!』って言っとけば手を出してくれる(言わないと手を出してもらえない)、そういうデフレスパイラル。


【第四章】

この際ついでに書いちゃおう、近々書こうと思ってたこと。

思えば、たしか90年代初頭くらいまではレコード(CD)のテレビCMなんて無かったよな。それが当たり前の様になったのは、たぶん、歌番組が減ったことが原因だと思うけど。

で、今ってその歌番組というか音楽番組も、特に新人とか出てきた時に、その人もしくは楽曲に付随する(ホントかウソかわからない)バックストーリーだとかロマンチックな設定、それこそOLや中高生が喜びそうな、カッコよさげな、感動のエピソードじみたものばかり謳い、アオってるよね(カリスマ、歌姫、多過ぎ問題)、それはそれはもう楽曲そのものよりも時間と音量を割く勢いで(笑)

それってもう、本末転倒だと思うんだよね。根幹より枝葉のほうが重視されてるというか、自らしてるよね、もう。そして聴き手も、それに伴うようにして、副次的要素が無いと音楽に没入できなくなってきてる…というか、「そういう風に育ててる」ってことにも等しいと思うんだよね。


【第五章】

それこそ十年ほど前からだったか、シングルにDVD(MV)が付属することが多くなったのは。「これファンにとっては確かにお得感もあるけど、『画が無いと聴けない』耳を育てることになりやしないだろうか?」と懸念してたんだけど。現在、当たらずとも遠からずって感。

ニコニコ動画で育った子が「YouTubeはコメント流れないからつまらない」みたいなこと言ってて。「あー、こういうことだよな(遂に現れたか)」と。メディアの変容でクロスオーバーが発生するのは道理、良くも悪くも潮流。

けど、その結果が「本質おざなり」では、新たな価値というより、ただの『崩壊』じゃないかな(逸れるけど、たとえばテレビも近年、"総ての基本がお笑いノリ"みたく染められてる様相だよね)。実際、本質崩壊してない?そこんとこを守るのもまた、業界本来の仕事だったんじゃあないのかな。 #武士は食わねど高楊枝

とまあ、そんな想いがあるので…どんなに好きでも会いたくても同じCDを何枚もは買わないことにしているのだ(`;ω;´)すまぬ…すまぬ… #涙を飲んで信条守る


【終章】

先日書いたこれとも連なる。

つまり『説明/準備されてないと享受出来ないという負の成長』ですよ(・ω・)これは俺のやってる方面でも言える。弾いてる画が無いと聴けない(聴かない)、あまつさえ、画があるにも関わらず直ぐTAB要求とかね。本質置き去りでどんどん欲張りというか甘ったれになってるということですよ。これは子供に限ったことじゃなくて、大人にも見られる傾向です。自力で克服しようという姿勢の欠如。

便利(ネット)を手に入れた結果「ひとりじゃ歩けない」みたくなったんじゃ、敢えて言うけど「バカみたい」じゃないですか。原点回帰!