2015年07月27日

「楽しくなければテレビじゃない」転じて「内輪が楽しければテレビです」かな?

そんなカンジ。

まずはツイッターより

なんや27時間は木村くんにバンジーさせたんか。毎度言うけど代わり利かん人はやったらアカンてああいうの…いやま他の誰かならいいってわけじゃないが(・ω・)ありゃやりたい人がやるもんでやらせるもんじゃない。ていうか未だ取り敢えずバンジーって企画の安さに閉口するわ #アイデア無いのか

ましてやフジとなると不安しかないわ、杜撰だから。

以上ツイッターより

『テレビのピンチ』

そもそもこのキャッチ(と、企画の方向性)を知った時点で全く「観たい」とは思って無かったのだが(´・ω・`)推しが出るということでやむなく(そのあたりだけ)ONしたところ…

以下、再びツイッターより(抜粋)

しかし『テレビのピンチ』って(`ω`;)他局「一緒にしないでいただきたい」と思ってそうだな…なぜ『フジテレビのピンチ』と言えないのか?そこに限界を感じる←

その挙げ句に毎度相変わらずのこの内輪ノリ(``)もう飛ばせるものなら飛ばしたい

これが「本気」って本気で言ってるんですかね…

なお。元ヲタとしては悪くないけどさ、これで「モー娘。の皆さん」て現娘。が可哀相だな。てかこれ15年前のネタですよね…これが本気…なお余談:ごく自然な感じでそこにいる矢口(苦笑)

これさあ…外野のガヤ要らないよな、うるさいだけ。淡々とステージ流したほうがなんぼかマシだと思う、これじゃ内輪でおちゃらけてるだけとしか感じない。まあそれがいかにもフジテレビらしさと言えばそうなんだけど…だからそれがもうダメだというのがわからんのかね、あくまで貫く意志なのか。

ダメだもう観るに堪えない、早く出番終わらせてくれ「本気」でそう思う

このガヤで盛り上げよう笑わせようって考え方いいかげん捨てようやマジで。#fujitv #五月蝿い #邪魔

茶番にも程がある。いかに推しが出てるとは言え観るに堪えない、もはや苦痛。

嫌なら観るなを痛感した&いよいよフジの終焉を見た気がした。 #率直な感想

つまらないを通り越して怒りさえ込み上げるレベル。結局フジテレビの言う「本気」ってのはマジっぽいのを茶化していくことなのかな?そして学祭の悪ノリ感。去年のSMAPを27時間再放送したほうがよかったんじゃないの、いやマジで←

早速まとめられてた、こりゃ当然だなと思う。

【27時間テレビ岡村の連続ダンスlive、ワイプのガヤがうるさすぎると苦情殺到 】

なぜフジは自ら積極的に評判を落としに行くのか?何もかも裏目裏目って或る意味凄い。

あれ面白いと思ってやってるとしたら重症超えて虫の息だよ。ぶっちゃけ現場はバカ騒ぎして楽しいのかもしれんけど、"テレビ"として観てる側としては最悪、内輪の悪ノリを見せられて「楽しい」と感じる人はまずいない。

さっきも言ったが。(ワザとでないなら)ここまでやることなすこと裏目裏目って、いっそ神憑り的、厄年でもここまで酷くない(笑)
【悲報 フジテレビ27時間TVがとんでもないことやらかす…これはないわ…ひどすぎる】

さらに

【フジ27時間テレビのマラソン、車で移動しているところを激写されて炎上】
観てなかったけどマジっすか(・ω・)『そういう笑い(演出)』じゃなくて?フツーに「感動した」とか言ってる人もいるとこみると笑いじゃなさげだが。

【補足追記】よくあるデマッターだった模様。

ついでに。

ていうかどの道、罰ゲームじみたマラソンなんかで感動なんてしないけどね、24時間のほうも然り(・ω・)なんの必然性も感じないし、べつにしなくてもいいことムリにして(させられて)苦しそうな人を見て心ふるえるほどサディストでもないから。

つまり、それは『頑張り』ではなく『無理矢理』としか思えない→『頑張る姿に感動!』とかあり得ない(・ω・)これを大袈裟にたとえるなら『お国のために戦ってきます(死にたくない)』それを見て「感動〜泣ける〜」とかぬかしてる気持ち悪さと似てる、そういうことだ。

他人様に辛苦(本分でない)を課して、それを安全圏から眺めて「泣ける」とか「頑張れ」って、どんだけ安っすい感動脳ですかね(``)いやマジで。

(以上ツイッターより)

発信が一方的で、その共有も容易では無かった時代、その時は"寵児"で在れたわけだが。それは何故かというと『メトロポリタンなデタラメな勢いに全国の大衆をノせてしまうことが出来たから』だと思うんだよね。それは或る種の羨望であり、同時に唯一の(華やかな世界の)共有感、そして共通感、言わば繋がり/親しみ感でもあり。「その内の一員」みたいな錯覚。

バブル期って良くも悪くも大らかで、よそ様の内輪ノリ悪ノリも許容出来る余裕があったし気安く乗っかれもしたからね、そういう空気が確かに在った、本来の意味での「ゆとり」ってやつだ。でも、残念ながら今はもう通用しない。今のフジは世間から見れば「いまだ浮かれてるバブルの亡霊」と映る。浮遊霊にして地縛霊か。

いま「残念ながら」と言ったけど、かつてのそういう風潮が良かったのか悪かったのか、それはわからない。「大いに浪費した結果」としての今現在だとしたら、良くはなかったんだろうな。ただ、『他人に対するキャパの大きさ』その点では決して悪いもんでも無かったんじゃないかな?と思うところはあるんだよね。人の、人に対する大らかさ/許容量が、景気と比例するのは悲しいかな事実(だと俺は感じている)

ヘンな話、「もしもあの時代にインターネットが普及していたら」ちょっとやそっとの悪ふざけくらいじゃ『炎上』なんかも無かったかもね(笑)

まあ、何れにせよ過去は過去だからね、「昔はよかった」と足踏みしててもしょうがない、現在を受けとめないとね。

とは言ったものの。

もしもそれが『意地でも貫き通したいスタイル(誇り)』であるのならば、変わらず日和らずもいいかもね?いずれまた順番が回ってくるイイ目が揃う時もあるかもしれないからね。フジテレビが復活するとき(多くに受け入れられるとき)=未曽有の好景気の再来のときなのかもしれない…なんて考えると、このまま頑張ってもらいたいような気もする(笑)が、しかし現状、積極的に「観たい」とは思わない←悲しいなあ