2016年02月23日

シナチクニンニシ

『千の風になって』、僕はあれをコミックソングと認識している、そして以降の日本の芸能文化を腐敗させた感動商法その大きな元凶のひとつであるとも思っている(・ω・)いやマジあれで「泣けるー」って理解不能だったよ、フンイキ陶酔もいいとこだと、かけそばから何も成長してないなと。

まず僕にとって日本語+オペラボイス=弱点である(笑いのツボ)というのもあるけれど。そもそも、歌詞が破綻している。「そこ」には居ないと言った舌の根の乾かぬうち「あの」とはどういうことなのか?いま空にいるのなら「あの」は無いだろう「あの」は(・ω・) ならここにおるやんけと(真顔)

更に穿つなら(・ω・)残された者による「という設定(想い語り)」であるなら、「この」では無く「あの」なのも、まあわからんでもない。だかしかしそんなわざわざそんなメタ構造とも思えず(笑)やはり"フンイキ発言"の域であろう。

ていうか「これ体のいい便乗商法じゃね?」とも(ぶっちゃけ)

そういうものにコロッと転がされる感性というものは、好意的に言えば「無垢」だが、本質的には「愚か」だ。そこにつけこむ者を、詐欺師という。

そして僕は邪推する「もしや佐村河内先生の作品なんかも盲目的にありがたがっていたりしたんじゃあないかな?」とゲス顔で邪推する。

#美談商法

ああ、便所紙の歌なんてのもあったよね、そんでまた「泣けるー」つって(・ω・)言うと思ったって感じだったよ、そして「へえそうなんだ」それだけだった、なぜなら僕のおばあちゃんはべつにそんなことは言わなかったからね(笑)それより、自分自身の思い出や物語を大切にすれば?なんて思うばかりで。

まあ紙に見放されると確かに泣けるけどね、泣けてくるけどね(そういう隠喩と思って聴くのも一興)

歌を「実話」と謳われるとね、凄くパーソナルなもの「その人の物語」という認識になってしまうんだよね俺の場合。だから、そう簡単にはそして過剰には感情移入出来ないんだよね…っていうか「さあ、どうぞ!泣いてください!」みたく来られるとね、反逆したくもなるんだよね単純に←

そんなわけで僕は妙に現実的具体性を強く帯びた言わば説明的な詞は聴く・書く共にあまり好まないのだ。そこは抽象的であったり暗示的であったり、いっそ思い切りフィクショナルなもののほうが好ましい、でないと「ウソ臭え」となってしまう、同じ"作り話"でも「ホラ」の如く感じてしまうのである。

いやまあ当然「想像」に決まってるんだけどねそりゃあね、死者は物言わないからね。そういう意味ではまあ悲しいわな、いや哀しいか。それでもやっぱり「勝手にキレイ目に代弁するなよイタコ芸かよ」って思うんだけどね。