2016年03月26日

バランス

【1】

トレンド 巫女のくせ って何かと思えば…

●「巫女のくせに何だ」自民・大西氏がまた失言●

まあ政治家大先生からすれば国民総じて「庶民のくせに」ってなものなんでしょうよ腹の内(`ω`)しかし呑み屋でする放言レベルの失態多いなあ大先生のくせに←

のび太のくせにを地で行くジャイアニズムかな

べつに、まったく庇う気はないけれど。
人間、誰かや何かを見下すことで自分の優位性優良性を確信しようとする部分ってのは多かれ少なかれもってるからね。庶民同士ですら「たかが」だの「底辺」だの言ってそれを実行してるんだから、そりゃあ大先生にしてみれば全国民がそれに当たるだろうね(笑)

つまり、さっき喩えた「呑み屋でする放言」だけど、「ネットで(匿名で)する放言」と置き換えてもよい(意味深)

ところで「自民・大西氏」って音声ニュースでうっかり聴くと「ジミー大西氏」と認識してしまいそうだ。


【2】

●自民党参院議員が白昼堂々の“暴力沙汰”JA関係者を殴る●

ソースがゲンダイってのが…と思ったら案の定、そこへ至った経緯一切無し(笑)何しろ暴力行使は感心しないが、殴られてもしゃーないと思える何かはあったかもしれないからな。偏り過ぎ。

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いきなりここから入ってそのまま終わってるからな(笑)だからその「何を言っ」たのかまで記して初めてマトモな報道だろ(・ω・)ってゲンダイに言ってもしょうがないな←

繰り返しになるけど、行使した時点で負けなことは言うまでもない(言ってるが)殴ってよしと許可されたので殴った=同意のうえ云々とはいかんわなそりゃ(笑)

わざわざ被害者にコンタクト取ったのなら尚のこと、総てを明らかつまびらかにすべきなんだよ『報道』を謳うのなら。これじゃあ「なにか都合の悪いことでも?」なんて邪推もされかねないってことだ、報道の姿勢の問題。義は我に在りなら包み隠さず。殴った奴がとにかく悪いと言うだけなら子供の使い

まあ、偏った思想に傾倒してる人にとっては文字通り都合のよいメディアだろうけれど。"どっちつかずのハンパ者"としては「キレイに偏ってんなあ」という率直な感想も当然出てくるわけだ。この当然の疑問も見えない、というか無視出来てしまう様になるから怖いんだよね『極端』て。

偏ってる人というのはどうも自分と全く同じでないと直ちに「敵」と認定を下さるみたいだからね(笑)おそらくは、この僕の発言も、ある方向に偏っている人にしてみれば、そういうことになるんだろうなと想う(・ω・)簡単だなあ

例えばさっきの「巫女」の件に触れてるくだりなんかは逆に、まさにその「逆」の方向に偏ってる人が見ればエネミー認定(笑)これまたあり得るわけだ。

僕は特定集団が判断基準でも無ければ集団に依存もしてはいない(・ω・)どっちつかずのハンパ者だからね。歪に偏るくらいなら全方位的に敵をつくるほうがマシ←

ついでに言うと。
もし裁判沙汰になるとして/するとして。"法に訴える"なら益々「殴ったほうが悪い」だけじゃお話にもならないからね(・ω・)子どもの学級会レベルでも理由は訊くよね?って次元の無論。

まあ実際にはおそらくそこまで行かず毎度のモヤモヤっとしたカンジで収束するんだろうけどね(察し)


【3】

●人工知能がヒトラー礼賛 - 米マイクロソフト実験中止●

純粋無垢は極端な考え方に容易く左右されるって証明されたわけだ(笑)ムダの無い思考ってのは合理性を追求しいずれ独善的になるものなのかもね?協調より一極って論理。

たとえば、怨敵をヒトラー呼ばわりする自称平和主義の向きもまた、つまるところは"そう"だものね(・ω・)『中間(中立)は無い』もの。

だからほら(・ω・)ヒトがネット上で数字化しつつある0か1かのデジタル化しつつあるって、だいぶ前に僕が予言したとおりになったろ(僕はキメ顔でそう言った)

傲慢を承知で敢えて言うけど、コミュニティが膨れ上がり、初期には在ったであろう"一定の水準"を下回る「烏合の衆」と化した段階で、そうなることは見えてるんだよね、オフもオンも同じく。

"スマホ"が普及したここ数年でそれが急加速した事は間違いないよ。そして、その際たる例がココ(Twitter)。つまりは、ぶっちゃけ「その程度の輩でも入り込めるようになった泳げるようになった」ってこと。もう昔のネットとは違う。

"あるコミュニティ"が「流行」と謳われ定義されてから文字通り流れが変わり始めたなってのが過去の実感。そう(・ω・)mixiだね、続いてツイッターに顔本だね。それまでネット=オタク=気持ち悪いとか言ってマイノリティを蔑んでたようなマジョリティまでもが我も我もと食いついてきた(笑)

そうして『自然とそこへとやってくる素地』ってのが無い者までもが集れば、総勢的に逆転もさせてしまうからね、近年のYouTube然りそりゃあ「もはや別物」にもなる、言わばネット世界=ひとつの社会としてのパラダイムシフトみたいなものだ。

そうして大勢になれば多様性っていう可能性が増すんじゃあないか?というと、残念ながらそうはならない、そうはいかない、むしろ多様性の芽は隅へと追いやられる格好となる。つまりもう(いまだドヤ顔で分けて語る、分けたがる時代遅れな自称識者もいるけれど)ここは「現実とほぼ同じ」だ。

ってなこと言うと「多くが匿名で顔無しなここが(現実と)同じか?」って声もありそうだけれど。見知らぬ通りすがりの顔などいちいち気にして見てないし覚えてなどいないんだから同じようなものだ(・ω・)少なくとも僕にとっては。違いがあるとすれば"その場で聞こえる声のデカさ"くらいだ(笑)

まあ、そこのところも微妙に、曖昧に成りつつあるというか、"そういう人もいる"ことは認めるけどね、「お前それサバンナでも同じこと言えるの?」じゃあないけれど(意味深)