2016年08月02日

シン・ゴジラ観るべし(ネタバレ無し)

2011年3月。大地震に伴った例の件、その光景をテレビで目の当たりにしたとき、僕は「ああ、もう日本でゴジラを作ることは出来ないかもしれない」と思った、「あ、終わったかも」っていう非現実感、日常の崩壊感と共に、そう思った。と同時に、「こうなってしまったからには、ならばこそ、新たに示すべき」とも想った。

そして、結果は。

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「なんちゅうもんを創ってくれたんや…なんちゅうもんを…(感涙)」

本当そんな感じ、「こんなの創られちゃって今後邦画はどうすれば(もう言い逃れは出来ない)」くらいの。予想(期待)の範疇を遥かに超えていた。これは、2011年以後の日本から目を逸らさず、真正面から向き合い仮借無く表現した初めての作品と言っても過言では無い。今を生きる日本人、必見。

「それについては腫れ物に触るような、いっそ見てみぬふりさえしているような」そういう世風の中、ほんとよくやったなあと思う。


高度に政治的な要素も多分に含んでいるので、その向き、ことに"偏った"向きには、あれこれと穿たれたり利用されたりってな事もあるかもしれないが、そんなのは些末な(愚かな)事だ。多分にリアルにポリティカルでありながら、しかし「この期に及んでそんな不毛な諍いやってる場合じゃねえ!」と言わんばかり、僕にはそう感じられた(★)。これは、矛盾や欺瞞を抱えながらも、巻き戻せない「現状」へと、ただひたすら立ち向かう人々の物語。

(★実際、劇中ではそのあたり(いわゆる右だの左だの)には言及すらしていない、近年の風潮(ある種"風物詩"と言ってもよいかも)の一つとしてサラッと差し挟まれてはいるけど、「だがしかしそれは『重要』ではない」)

それでいて"怪獣映画"のカタルシスもしっかり、いやもうむちゃくちゃあるんだよ!*******なんてクソアツ過ぎてもう泣き笑い(もちろん好意的に)


ひとつだけ、後悔していることがある。「拍手喝采贈りたい!」って衝動を抑えてしまったことだ!


僕が「ゴジラ(1954)をリアルタイムで観られた人、羨ましい」と思ってきたように未来の誰かが必ず思うだろう、「ゴジラ(2016)をリアルタイムで観られた人、羨ましい」と。だから悪いことは言わない、とにかく劇場へ急ぐんだ!ネタバレという災厄に見舞われる前に。

偉大なる1954。当時の観客が受けたであろう衝撃、迫真性。2016年の今、"2011を通過した僕"は時を超えてそれへと近づき、僅かでも知ることが出来たような。そんな想いすら。それはつまり現実対虚構がもたらす…ここで敢えて用いよう「シンクロ」だ、シンクロ率の高さだ(・ω・)"身をもって知っている"からこそ真に迫るものがある、時代、場所、人、その時々にある。そして想いが時を超えリンクする。

1954その最期、芹沢博士は言いました「幸福に暮らせよ」と(・ω・)色々あるけど大変だけれど、だからこそ、いまシン・ゴジラを観ることが出来る、それは幸福です。

シン・ゴジラ観るべし。



「今夏、何度リピートしに行く(行ける)だろう?」一昨日からもうそればっかり考えてる(笑)



(当記事はツイッターでの投稿を抜粋し加筆再構成したものです)




【追伸】







【蛇足】
ひとつだけ。平成以降、ともすれば命題であるかの如く成ってた「なぜ日本/東京なのか」を「今それどころじゃねぇ」とやっつけた潔さ。そうなのだ、それは偶々であり必然自然、川に現れるアザラシの如く。一つ違えばあの不明生物だってタマちゃんなどと呼ばれ親しまれたやも(とにかく観てください)