2017年11月11日

冷血と思われるかもだが

敢えて言う(言わずに居れない)




「自身不利になる自供なんだから、事実なのだろう」

その想いを更に強くさせるものを、昨日だったか一昨日だったか忘れたが、テレビのニュース番組で目にした。それは、"犯人と関わりのあった(犠牲者の一人となっていたかもしれない)人物"とやらの発言。いわく、要約すると「自分も危なかった助かってよかった」と。おいおい、その"関わり"の発端にして根源にあったのは「死にたい」じゃあなかったのか?と激しい違和感、と同時に「やっぱりそうなんだな」という冷めた感情。

なにが「やっぱり」なのかって?そういうのは昔から、ことネット上には腐るほどいる、それこそ『死ぬ死ぬ詐欺』なんて揶揄嘲笑されるほどに。率直、「かまってほしさに軽々易々「死にたい」なんてフくんじゃねえよ」ってことだ。


そして、この報道っぷり。

【幼子いる女性が、漫画家の夢が 座間で犠牲「許せない」(朝日新聞デジタル)】

「可哀相」、だが正直言って、そこに"同様の違和感"も覚えずにはいられない。

だからこそ、「そっとしておいてやれよ」と思うのだ。"そこ"へと届くのは、濡れそぼった同情の声ばかりでは無く「自業自得」といった声も届くに違いないからだ。それは、当人生きていてこそ活かし活かされるべき苦言であって、遺された人々にとっては何の意味もなさない。忠言でも訓誡でも何でもなく只々辛く苦しいだけの、追い打ちにしかならないからだ(拙文とて若し其の目に触れれば恐らくはそう成るだろう)。

それでも、そうまでして、拾った「不幸」を売り物にして、センセーショナルな"メロドラマ"を作り上げたいのかマスメディアは。どんな災厄を経ようとも懲りることは無いんだな決して(どころか311以降益々酷くなった感すら)






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