ザ・サムラゴースト

2014年03月07日

懐剣にバッサリやられた侍(自称)の会見

「私の指示に忠実に〜それが皆さんにお褒めいただいて」ってもの言い…つまり「自分には(音楽的)才能がある」って、この期に及んで暗に主張してるわけだな(笑)

この男、物腰柔らかく「反省している」と口では言ってるが、どうも誠意が見えない。物言いが全体的に(ハンデを傘に着てたこと同様)弱者・被害者を気取ったその実傲慢、つまり『嘘吐き』の態度にしか見えない。

>>「あり得ません科学的に」
このセリフで「懲りてないぞこの男」と確信した(``)お前は科学者でもある(脳内)のか?

それにしても、腹立たしいのはマスコミ。佐村河内と告発者、どちらが『より悪い』のかって裁判気取り。むしろ告発者のほうに、より矛先を向けよう向けようとしてるフシすら感じる。

そこには、どちらも悪いには違いないのだから等しく扱おうといったバランス感覚などではなく、この話題を引っ張ろう(長引かせよう・複雑化させよう)というマスメディアらしいあざとさを感じる。さらには、結果的に【美談商法】の片棒を担いでいた(いる)自分達自身に世間の矛先が向くことを避けるための、ある種のスケープゴートに仕立てようという意図も感じる。

己が責には一切言及しようとせず、あまつさえ告発者叩きにスライド気味な発言の目立つ、コメンテーターという名の飼い犬(給料いくらだ)の様子を見るに、後者のセン強い…かな?

思うんだけどさ。あれだけ大きなプロジェクトになり、ヒトもカネもたいがい大きく動いてるわけでね。『あの二人以外、誰も何も知らなかった(気付かなかった)』なんてワケが無いんですよ。それこそ見て見ぬフリも、暗黙の了解も、少なからずあったはず。

それから…事件発覚直後から高橋選手の名をあげては「(告発の)タイミングがおかしい(悪い)」と言ってるが、そんなんで論点曲げようとか、バカかと思う。「ずっと迷っていた?ならばもっと早く(曲の使用が決まって直ぐ)言うべきでしょう(キリッ」とか嗤わせる、結果論もいいとこだし、そもそも、他人のタイミングなんてもの分かるわけないだろ。

当の佐村河内も「協力的だったのになぜ突然」みたいなこと言ってるが…本音と建前、内面の葛藤無視で上辺の態度だけで人の情動を量ってどうすんの(笑)

その感想は、足元を掬われた側の感覚でしかない。昨日まで何事もなく仲良く付き合ってると思ってたのに今日突然別れようって言われた(何故?)ってなもんだ。人には、こちらの都合通りにはいかない、そして隠された情動もある。

ていうか、この期に及んでまだ美談・善意(な自分)ごっこか?と、なにかと高橋選手が可哀相的な…本当はタイミングなんてどうでもいいんだろ?そんなんどうでもそれなりに盛り上げちゃうんだろ?

最も信用ならないのは、どんな片棒を担いでもイザとなったら知らぬ存ぜぬ我関せずな、マスコミという存在だぞ。

>>「(義手外して出たら)感動しませんか?」
ああ、もう性根が駄目だと思った、なるほどその行動原理がよく分かった。そして「昨今多くのマスコミも根本は同じだよな」とも思った。

だから【感動・美談・泣ける商法いいかげんにしろ(ありがたがる側も)】と常々言っている(``)そういうのに飼い慣らされるってことは本物・本質を読み取る感性や情動がどんどん萎えていく、そして本質そのものも安くなり下がるってことなんだ。ここ数年で『絆』って言葉が随分と軽くなったように。

って書き殴ってるうちに会見終わったらしい。影武者訴えるんだって?またぞろ社会的弱者というカタナを大上段に振りかざして挑む、『情に訴える』んだろうな。最後は手話でシメだって(``)どこまでも芝居がかった男だな、マスコミみたいだな。
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【追伸】
その点については解決した模様ですが念のため。
左がリンホラ、右がホラです。
法螺

おすぎ氏に似ている?佐村河内氏の変貌ぶりにネットで驚きの声 | 東スポWeb

既におすぎコラが出来上がってそうだな…
「ワタシにダマされなさい!」


《サムラゴースト3部作(まとめ)》
第一部【影武者】
第二部【鬼武者対影武者】
第三部【外様】

特別編【THE SAMURAGHOST】

異聞録【怪気炎】

番外編【其の一】
番外編【其の二】





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2014年02月28日

THE SAMURAGHOST

サムラゴースト。それはたとえば権威主義、たとえば美談信奉。そういった付加価値、副次的要素無しでは物事を量れない(或いは過剰に賞賛する)、直感的でない鑑賞態度・姿勢によって受け手自らが生み出し招き寄せた怪物、その権化と言えなくもない、俺はそう思う。そこにつけ込まれたのだ

顔本の例のキモコミュで「キレイなウソならアリ♪」とか言ってた連中みたいなんとか、このウソについてはどう考えてるんだろうな?しっかりCD買っといてから「騙された!感動をかえせ!」とかバカなこと言ってないだろうな。

なんて思ったけど確かめようとは思わない(・ω・)気持ち悪いから二度と近付かない

真実かどうかを抜きにして感動したいなら最初から作り話にすりゃいいのに。

そう、なら小説なり漫画なり映画なりでストレートにフィクション享受すればいいし、詞(詩)に自己投影/陶酔するそれが最重要ならポエム読んでればいいんです極論。音楽に音楽以外の要素要点求め最重視とか勘違いも甚だしい。音楽は言葉より背景より先ず第一に単純に音を感じるべきもの

誰が作ったか、誰が言ったかばかり頼りにする傾向がこういうゴースト問題を生むんですよね、きっと。見たもの聴いたものに対してどう感じたか、素直に判断出来る人が少ないということ。売る方は売れる方に流れていきますから、その是非は置いといて。結局は多くの聴き手がこういう事態を望んでたと言っても過言ではないのかなと思います。

自分はこうだ!って主張出来ない、多数派でいたい、「自分ひとりだったらどうしよう」ってな意識が根底にあるのかもね。で、こういう場合に「騙された!」って騒ぐ人は、そもそも原因が純真無垢とはむしろ逆の見栄っぱりだったりね。

以上、Google+内M氏のコメントを一部引用させていただきました(文中斜体)。


『誰でも手軽に簡単に』こういう売り文句に乗せられ(騙され)てはいけない。売りたい側もそこに頼って(逃げて)はいけない。

誰にでもはわかりにくいからって誰にでもわかりやすい補助を付け足す、商売的には正しいんだろう。しかし、それこそ即物的。それではユーザーが育たない、結果として市場も成熟しない。そうして事の本質から、ますます遠のいていく。

敢えて、お叱り覚悟で敢えて乱暴な言い方をするならば…バカを基準に商売してたらバカを増長増殖させることになる。そして『エナジードレインの応酬』が発生する。

だから「間口を広げる努力は結構だけど、安易に敷居を下げるようなマネは好ましくない」と常々言ってきてるんです。俺のやってる領域で言えば、タブ譜やバックトラックの安易な配布とかね。

人って「あ、これでいいんだ」と思ったら努力をしなくなるからね、本質とは無関係な方向にばっか力使うようになるからね、佐村河内守みたいにね。


《サムラゴースト3部作(まとめ)》
第一部【影武者】
第二部【鬼武者対影武者】
第三部【外様】

特別編【THE SAMURAGHOST】

異聞録【怪気炎】

番外編【其の一】
番外編【其の二】





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2014年02月08日

外様だから言えること(かもね)

【佐村河内守】作曲家ゴースト告白の“タイミング”に賛否 坂上忍が新垣氏に苦言「今じゃないでしょ!」

まあ、いかにもギョーカイ的な見解だな、契約・盟約、密約的な。それは社会的な、『大人の態度』なのかもしれないが…妙に告発側(ゴースト)を責める論調を展開する人は「何か後ろめたい事でもあるのか?」と穿って見てしまう(笑

本来「タイミング」なんてのは作者のもの、当事者のもの、本人次第。外野が口を挟み・決めることではない。

今回の一件、芸術・創作と商業・産業は、本来水と油だということが、露わになった。

勿論、その全てがそうだとは言わないが、およそ産業○○というのは『妥協の産物』。偽らざる自己表現の純化への邁進と、物質対価を重視する宿業は、本質的には相容れぬもの。ゆえに、多くは、少なからず『折り合いをつけて』いるのだ(なお、それすらままならない・叶わない場合、それは『劣悪な環境』であり、一種の支配、蹂躙と言ってもよいと個人的には思う)。

過剰な装飾、あるいは虚飾。それをよしとする、芸術の商業・産業化。その歪みをむしろ当然のものとしてしまった原因。その根底には、売り手(ここは敢えて「創り手」と言わない)の不純な動機や欲望の存在も勿論だが、享受する側の意識、芸術に対する理解の程度の問題も、在ると思う。

或る作品・対象に向き合うとき、そこに付加価値、たとえば作者の有名無名、権威からの評価の有様、作品の成立における劇的要素の有無といった、作品それ自体、ひいては自分が直接作品から受ける印象とは無関係と言っていい名目や冠名、或いは意義。そういった言わば『道筋』を用意して頂かないと「感じ入る」ことが出来ないという、鑑賞する側の態度、つまり権威主義、ひいては感受性の欠乏の問題。

ここで「ではフィクションは存在してはいけないのか(無価値なのか)」とか「夢を見てはいけないのか」といった声も聞こえてきそうなので、念のため言っておく。これは、そういう話ではない。ここで述べているのはあくまで『作品の本質とは無関係な脚色の介入や思惑の過干渉』だ。

事実、かの人物・作品に対して、そういったバイアス無しで純粋に触れ/評価してはいなかった人々は多いはずだ。それはもはや『直感』では無い。

常日頃「クラシックなんて」「歌詞ないの?(無いと聴けない)」なんて人も、そこにたとえば『感動的エピソード』が付属していると途端に「素晴らしい!泣ける!」と誉め称えはじめたりする。

ちょっと逸れるが…初音ミクという優れたデザインの『キャラクター』の存在がなかったら、はたしてボーカロイドというジャンル(まあ本来は"ツール"なのだが)は、ここまで支持されていただろうか?

閑話休題。

だが結局のところ、殆どは「そこまで」だ、多くがその先へとは至っていない。あくまでそれ『だけ』が評価や感動の対象であり、音楽愛聴の裾野は決して広がってはいない、むしろ目に見えて縮小してきている。それは『場当たり』で売り切ってきたツケだ。長期的・普遍的であるべきものを扱う立場にありながら、本質の理解を怠り、本編とは別の物語で煽り、次々と一時的な、ある種の特需を作ってきたに過ぎない。

商売である以上、多少の飾り付け・盛り込みも必要、それは理解する。しかし、近年の様相は、あまりにも本末転倒だと感じる。苦しいならばこそギョーカイは、内に外に、本質を育てる立場へと返らなければ。自らを苦境に追い込んだのは自らの安易でもあるのだから。

そして。事ここに及び襟を正すべきは、ギョーカイ側ばかりではないと考える。近頃よく「質が下がった(だから聴く気がしない)」といった声を聞くが、そうなってしまった、『それを許してしまった』のは誰か?それを省みるには丁度よい機会ではないだろうか。でなければ、この先も、エナジードレインの応酬(レベルの下げあい)は、連綿と続くだろう。


以上、創り手の端くれでありリスナーでもある俺の極めて真面目な独り言(・ω・)具申であり自戒でもある。←一応つねにそのつもり


《サムラゴースト3部作(まとめ)》
第一部【影武者】
第二部【鬼武者対影武者】
第三部【外様】

特別編【THE SAMURAGHOST】

異聞録【怪気炎】

番外編【其の一】
番外編【其の二】




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2014年02月06日

【完全版】鬼武者対影武者ファイッ〜そして落武者へ〜

昨日、最後にひとつだけと杉下右京みたく穿ったことが的中してしまったようだ、俺の邪推、下衆の勘ぐりで終わってもらいたかったのだが。

【「佐村河内氏の耳は聴こえていた」新垣隆氏が会見】

作詞いや策士としては実に有能か…まあこういう場合は詐欺師と呼ばれるのだが。いっそ佐村河内あらため佐村ゴーストを名乗り、影のプロデューサーとして暗躍してみてはどうか(・ω・)影策士。

しかしながら…くれぐれも、俺が問題提起したいのは「どうせ他にもゴーストライターなんてよくあるだろ」とかではなくて「音楽以外の要素を最大要点に音楽を聴く・評価するという態度」なのです。これは音楽のみならず他の芸術、いやもうあらゆる事において再考されるべきこと。本質よりも看板や肩書きが拝まれているという歪み。


なお、彼を擁護するつもりは全く無いが…「楽譜を読めない・書けない」そういう音楽家も珍しくはない(彼の場合は作曲していたとは言えなさそうだが)。なので、その点を殊更取り上げて叩くのは、あまり感心しない。まあ、「楽譜を読めない・書けないなんて音楽家(作曲家)としては認められない」という価値観もあろうことは理解する。が、それもまた、たとえば「音大を出ていなければ認められない(出てさえいればとりあえず認める)」といった、またも看板や肩書きに依存する『権威主義』に繋がる危険を孕んでいると思う。

個人的には、たとえ鼻歌であろうと「自力独力で紡ぎ出したもの」であればそれは作曲だと認めたい。もちろん、ただの出鱈目・出任せは認められないけど(もちろん、人任せも)、しっかりとした「これは、こうだ」が在る(出来る)なら、手法はどうあれ、それは認めないと。

喩えだけど、「豊かな語彙を持っているが文字が下手(あるいは書けない)」からって、その人の感性を認めないわけにはいかないからね。それに、自身の方法論(拘り)と他者の取る方法は、また別だから。必ずしも体系化された学問や教則に則り従っていなければならないなんてことは無いと思う。それって、芸術的には最もつまらない態度じゃないかな。

まあ、俺も「作曲をしない人は音楽家(MUSICIAN)では無い、演奏家(PLAYER)だ」という拘り(という名の偏見かもしれないもの)は、持ってるけどね(笑



【追記】
『指示書』については「アーティスティック(高尚)したくて仕方がない虚実綯い交ぜな中学生のノートみたい」と思った。

なお、


受難
運命
魔の怒り
魔の誘惑
混沌

不安


なんとなくこれ彷彿で失笑

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喋って/動いてる姿って今回の事で初めて見たんだけど…「なんかいちいち挙動が芝居がかってるなあ」というのが、率直な感想。あの企画書からしても演劇症候群的な性格を感じた。敢えて正直言うと、往年の麻○をなんとなく思い出した(そういえばあの男も障害を装ってたよなたしか)。

まあ、人前に立ったり何かを表したりする人間てのは多少なり芝居がかったところ、ナルシシズムを持ってなきゃいかんとは思うんだけど…虚像と実像の間に『偽り』が在る人、己が理想像に対して『実』が伴っていない人ってのは、どこか不審に映るものだ。


《サムラゴースト3部作(まとめ)》
第一部【影武者】
第二部【鬼武者対影武者】
第三部【外様】

特別編【THE SAMURAGHOST】

異聞録【怪気炎】

番外編【其の一】
番外編【其の二】





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2014年02月05日

影武者

うわあ…(´・ω・`;)鬼武者じゃなくて影武者やないか、大変だこりゃ。

【佐村河内守氏の曲は別人作 フィギュア高橋大輔のSP使用曲も】

俺は「鬼武者と、夢で終わらせないで終わらないほうのバイオ1の人だよね?」くらいの認識で、特別な思いとか無いんだけど、信奉してた人は、さぞかしショックだろうな…だがしかし、そこで、こうも思う。

『もし、これで楽曲そのものに対する評価・態度が変わるようなら、その程度のリスナー(評論家等含)だな』と。

純粋に楽曲そのものに価値を感じていたのなら、「実は」誰が作っていようが、そこは関係ないはずだ。

偽り騙っていた人物に対しての評価や態度はともかく、楽曲に対して掌返すような人がいたら、その人の審美眼(対象は音だけど)は信用ならないと思っていいんじゃないかな。「でもイメージは伝えていたんだし!そこには耳が不自由だからこそのイマジネーションが!」なんてヘンな擁護する人がいたら、それもまたアヤしいけど。

つまり、『音楽以外の要素で音楽を評価賞賛する程度の』ってことね。厳しい様だけど敢えて言うと、この場合ならば「身体的ハンデ」による追加補正ということ、あるいはまた、「歴史的・劇的要素」による感情移入過多(これは「歌詞偏重」にも通じる、近年の、特に邦楽が抱える問題点・課題だと思う。直接的「映像」も含めた、『イメージ』の随伴が過剰となり(★)純粋に「音」そのものを聴けない耳・世代が育っている)。

★劇伴などの所謂『効用音楽』については、また別のお話。念のため。

逆もまた然り。たとえば「無名の誰かさんではなく、実は、かの有名な○○さんが作っていたのです!」←途端に高評価・絶賛とかね。要は、ブランドやネームバリューに依るような価値観に同じということ。

「○○なのに、凄いなあ」ってのも、一種の差別的発想と取れなくもないとは思う(ていうか取る人は取るだろう…ってとこ)。でも、それっておよそ純粋・単純な感情(感心・感銘)であって、概してそこに他意(悪意)はない。ただ、必要以上の美化が生じてしまいがちなのも事実。

そこで最後に、ひとつ。

『不自由』は、本当なのだろうか?


昨日、『偽りの人気作曲家がゴーストライターを●す』という内容の漫画を読んだとこなので(´・ω・`)ちょっとビックリした。ちなみに『悪魔の花嫁』、その中の一編。←久々に読み返してたら止まらなくなった


《サムラゴースト3部作(まとめ)》
第一部【影武者】
第二部【鬼武者対影武者】
第三部【外様】

特別編【THE SAMURAGHOST】

異聞録【怪気炎】

番外編【其の一】
番外編【其の二】






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